第8回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門・優秀賞受賞作品


   『 いじめられる人は悪くない』
        


                                           百華 叶桜 

 思い返せば、幼少期より気が弱い性分でしたのでいじめを受けた経験は多少あります。

 時々は「自分がいじめと思っているだけで実は第三者から見たらいじめじゃないのかもしれない」と明るい考察をしてみたこともありますが、「いじめ」は受けた本人がそう受け取った瞬間から「いじめ」なのだとその度に思い直します。思い直すことで、自分自身を肯定し、自分は悪くなかったのだと自分を癒すさようもあるため、この思考回路は私にとって大切なものなのです。

 さて、「いじめをこうして克服した」…深く考えても、どのようにしていじめられたとか、自分って可哀相でしょ?などのアピールならたくさん思い浮かぶのですが、克服方法は、あまり自分のスキルに無いような気がします。でも、三十年以上生きていて多少なりとも自分で克服はしているはずですので、幼少期より現在を振り返りながら、ゆっくり見つけていきたいと思います。

 まず、最初に自分が「私、いじめられているな」と思ったのは小三の時だったのでしょうか。

  前の席の女の子に

 「あなた、学校で全然泣いたことないよね?泣け!泣け!」

と次の席替えがあるまでの一ヶ月間、鉛筆の先で手の甲や腕を刺されたり、つねられたりしました。

「どうして私がこんなことされないといけないのだろう」

とそう思ったのを鮮明に覚えています。しかし、その時の私は誰かに助けを求めることは、なぜかできずに次の席替えまでの一ヶ月間、ひたすら耐えて過ごしました。なので、この時の克服法は「時間に身を任せる」というものでした(克服法というほど胸を張っていうものでもないのですが)。

 ちなみに、この頃から学校でお腹を下すようになりました。きっとストレスから体が悲鳴をあげていたのでしょうが、親に「体調が悪い」としきりに言えば「気持ちが弱いからそんな風になるのだ」と批判されることは目に見えていたので、当時小三のまだ小さな女の子であった私は、両親にはいじめのことも、よくお腹を下すようになったことも言えず、ずっと自分の中だけで悲しみや惨めな気持ちを持っていました。

  今思えば、誰かに相談すればよかったと心から思います。信頼して話をできる人の存在は、自分の心の安定や質の良い日々を送るにあたり、すごく重要だと大人になった今、強く感じます。この時に手を刺されたり、つねられたりした子とはそれ以来積極的に話したことは今まで一度もありません。いじめというものは、いじめられた方は、恐らく一生忘れないものになるのです。

  でも、考え方を変えれば「いじめられた人と話さないし、近づかない」ということは一つの克服法になるのかもしれません。私の場合は、その子を見ただけで吐き気がして近づくことができませんでしたので、身体レベルで克服をしようとしていたのでしょう。

 小四の時には、友達と二人でいじめられるという事態にも遭遇しました。

  なぜか理由は分かりませんが、席の割り振りで「同じグループ」になり一緒に給食を食べたり、班活動の時には一緒に行動したりする三人の男の子が私と私の友達の顔をみる度に笑うのです。顔を見て笑われるということで、とても自己肯定感を奪われて、抗うつ状態に陥りました。

 この時は他人から見ても落ち込んでいたようで、母に学校から帰ってきた直後に「少し話そう」とほぼ無理やりな状態で散歩を二人でして「今、学校で何か辛い目にあっているのか」というようなことを質問されたことは覚えています。

 私が「笑われている、もう学校に行きたくない」と答えると両親は驚き、大変なことが起こっていると大騒ぎをして担任の先生に電話をかけてくれて、担任の先生が三人の男子に話をして席替えまで行い事態は収束の方向へと向かいました。この時の克服法は「他人に話す」という事が大きなキーワードになったと思います。無理やり散歩に連れ出し、聞き出してくれた母には感謝をしなければなりません。

  しかし、私はだいぶひねくれた子供だったようで、話をした後の両親や担任の先生の反応より「この家、あるいはこのクラスから不登校の人を出したら恥ずかしいことだ」という思いを感じ取ったのです。そして、本当は心から「あなたのことが一番大切だし、大好きでかけがえのない存在だ」という言葉をかけてほしかった私は「自分ではとても重要なことを打ち明けたつもりだったけれど、反応は期待していたものとは違った」と鬱屈した思いも抱きながら成長するようになりました。

  高校生くらいからでしょうか、「自己肯定感は自分で育みたい」と思うようになり、「私は私のことが大好きだ」と思うようになり「私は私のことが大好きだ。私はとても価値のある存在だ」と気付いた時に言うと心が癒されることに気づき、何度も自分に優しい言葉をかけることで鬱屈した思いが少しずつ、少しずつですが、薄らいでいくのを感じていました。

 この「自己肯定感を育む言葉かけ」は凄く今でも生きる上で役に立っていて、落ち込んだ時には自分の気持ちが上向きになるような言葉を文字にしたり、声にしたりすることで自分を穏やかにできるようになっています。

 また、私は子供が二人いるのですが、育児の場面でも絶大な効果を発揮してくれています。子供に「大好きだよ」と声をかけることで、嬉しそうな顔をしてくれますが、実は効果は子供に対してだけではなく、母親の私の方に対しての方にもある気がしています。

 子供達に「あなたは生きているだけで、私は嬉しい」「あなたのことが、無条件に好きだよ」といった内容の言葉をかけることにより、私自身も凄く優しく満たされた気持ちになる事ができます。子供と過ごす日々の中で子供達が言う事を聞いてくれなかったり、喧嘩をして親がイライラしてしまう時にこそ心の中で呟くだけでも、自分の心を整えてくれるお守りとして私の心の中にある、大切な方法です。

 話は戻りますが、中学生の時はいじめがひどいクラスに在籍しており、他人がいじめられているのを見ているだけで自分も傷つくことが多々ありました。また、それだけではなく、毎日誰かがいじめに遭うか分からないサバイバルな状況であったので、クラスの中で数人が話をしていようものなら

  「私の悪口を言っているかもしれない、次は私がいじめられる番かもしれない」

とネガティブな考えが頭の中を絶えずよぎり、ハッキリ言って勉強に集中するどころではなく、常にビクビクしている毎日でした。その時は気の合う友達が幸いクラス内にいたため、クラスの悪口を帰り道に言い合ったりすることで、心をどうにか平穏に保つことができていたと思います。

 一年間が過ぎ、クラス替えがあっていじめの主犯格とされる子たちとクラスが離れた時には気持ちが軽くなったのをはっきりと覚えています。この時のいじめの克服法としては、

  「誰かと話し、気持ちを共有することで自分だけが辛いのではないという気持ちを得る」

というところが大きいように思います。

  小学四年生の時に気づいたことでしたが、誰かにアウトプットすることは、いじめを克服するうえでとても重要なことになることを再認識させられました。しかし、中学生という多感な時期において何故一年という長期間に渡り、いじめという卑劣な行為が行われなければならなかったのでしょうか。

  私は直接いじめられたことは無かったと思っていますが、直接いじめられている子は私よりもはるかに辛く、苦しかっただろうと思います。当時の私には精神的余裕があったなら、いじめられている子たちのために何かしら動きたかったと後悔の念が募ります。その時が中学一年生だったのですが、中学三年生になって中一の時いじめの主犯格グループにいた子の一人が、いじめられる立場になり、学校に来られなくなった時は正直言って自業自得だと思いました。でもきっと、そんな風に荒んだ心を持ってしまうことがいじめの始まりなのでしょう。

  私はその気持ちを持つまでは「自分はいじめられることはあっても、いじめをする側には絶対にならない」と思っていましたが、自分自身にもいじめをする側の気質が少なからず備わっていたことに気づいてしまいました。多分、いじめとは心のバランスの配分が少し違うだけで「いじめる側」「いじめられる側」に分かれるものなのです。勿論、私はどちらにも属したくありませんが。

 中学生以降、「クラスは強い人が上に立ち弱い人はいじめの対象になってしまう」といういわゆる「スクールカースト」の存在に気づいてしまった私は高校になってもクラス替えがある度に「このクラスで強い人は誰なのか、そして自分が仲良くなれそうな人はいるのか」という事を瞬時に考える癖がついてしまいました。

  幸い、高校では中学ほどは全体的に見ていじめの程度はとても軽いものでしたが、やはり見た目が良い人や気の強い人は皆の上に立ち、気の弱い人はぞんざいに扱われやすいといったことは、中学の時とは変わりませんでした。

  人が他の誰かよりも偉いだとか劣っているということは本来ないはずなのですが、スクールカーストにおいて上に立っている人達は生き生きと、自信を持って三年間を過ごしていて反対に周りから見下ろされていると自覚してしまっている人たちは、三年間荒んだ心で過ごすはめになるのです。

  特定の誰が悪いというわけではなく、集団心理によって「陽向に立つ人と陰に立つ人」が作られてしまうので何が悪いとは一概には指摘できませんが、スクールカーストがある状況に身を置くことにより、他人の目や意見を必要以上に気にしてしまう人が多く出てきて、また上にのし上がりたいという願望を持つ人も出てくると思われます。そして、残念ながらスクールカーストがある学校やクラスは、この国ではたくさんあるのでしょう。

 残念ながらというか、驚いたことにと言おうか、このカースト制度は私が社会に出た時も会社の中で見受けられましたし、子供を出産していわゆる「ママ友」と呼ばれるコミュニティの間でも見られました。人間は他人よりも優位に立つことで自分を保とうとしているのかな…と悲しくなったほどです。

 私が前述した「スクールカースト」や大人になっても出会ってしまったそれに類似するものたちからの克服法としましては、「そのコミュニティからできるだけ距離を置く」というものです。とはいえ、同じクラスであってクラス替えがあるまでは、物理的に距離を置くこと」を提案したいです。

  「いじめられているから学校に行かない」という選択は距離をとるためには有効であり、命を守る行動として褒められて好いことだと個人的には思います。ちなみに、私の体験から言わせてもらうと、中学校や高校、はたまた会社内やママ友の中でどんなに上にたっても、そのコミュニティを離れたら普通の人に戻るということは強く言えますので、上に立っている人が落ちていく様をこっそり見て楽しむといったことも大きな声では言えませんが、克服する手立ての一つとなります。

 この作文を書くにあたって、「いじめとは何か、また何故おこるのか」ということを深く考えてみましたが、何故起こるのかは、いくら考えても答えが出ません。しかし「いじめとは何なのか」ということを考えたところ私の頭の中に浮かんだのは「人間の弱さの縮図であり、決してあってはならないこと」ということでした。

 そもそも「いじめの克服法」を考えることに対し、少し疑問を持ってしまいました。

 なぜならば、いじめ自体あってはならないことですし、私の克服法を知ったところで、参考になるかは分かりません。何よりいじめの根本的な解決には、ならないからです。いじめによって死ぬ人は、たくさんいるはずです。ですから、大事なのはいじめを根絶させるためにどうしたらよいか、自分は絶対にいじめには加担しないし、又傍観者にもならないという強い意志をもって、一人一人が毎日を思いやりとともに過ごすことではないでしょうか。